『なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか?』アガサを捨て若い女に走った夫への復讐計画。そして彼女はいなくなった

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 前回の記事http://kyo-novel.jugem.jp/?eid=44では、エラリー・クイーンの研究書『エラリイ・クイーンの世界』を紹介したが、今回の記事ではアガサ・クリスティーの研究書を紹介する。

『なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか? 七十年後に明かされた真実』(早川書房)

 ミステリーの女王がその生涯において残した最大の謎、1926年の11日間の失踪劇を、クリスティーマニアのジャレッド・ケイド(アガサ・クリスティーの66の長編作品に関するテレビ番組のクイズで全問正解という快挙を成し遂げて、6400ポンドの賞金を獲得した経歴を持つ)が、当時のことを知っているアガサの親友の遺族や警察などから話を聞いて完成させた本。その調査研究に六年もの歳月を費やしている。

 訳者は、『火曜クラブ』や『バグダッドの秘密』などクリスティー作品の邦訳を手掛けた中村妙子。

『エラリイ・クイーンの世界』がエラリー・クイーンが生み出した数多の作品の隅々まで光を当てた研究書なのに対し、『なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか?』は、作者その人、アガサ・クリスティーを骨の髄まで追究した本だ。

 

 魅力的なアガサのもとに現れた多くの求婚者のうちの一人にレジー・ルーシーという、のんびりした性格のやさしい青年がいた。

 アガサは彼と婚約したが、結局彼と結婚することはなかった。

 彼女が彼に別れを告げた理由は、彼では自分に与えることができないものがあると感じていたからだ。

 それを自分に与えることができるのが、アーチボルド・クリスティーだった。

 アガサが求める男性像(彼女が「海から来た男」と表現した、魅力あふれる未知の男。ロマンスと冒険を自分のもとに運んでくれる男)に、彼こそがぴったりな存在だった。彼女は、自分とまるで違う、異質な人間に征服されたがっていた。

 彼はのちに彼女の心を引き裂くことになるが当時の彼女はそんなことは知らず、活力ある彼とのロマンスに浸り、自分が今まで見たことのない景色を見せてくれそうな彼に強く魅かれていた。

 ロマンスと冒険を約束してくれそうな彼からの性急な求愛に、自分の殻に閉じこもりがちなアガサは応じた。

 

 アガサが推理小説を書き始めたのは、母からすすめられたという理由もあるが、姉のマッジへの反発もあった。姉は《ヴァニティ・フェア》誌に短編小説が何度か載った経験があり、その彼女とアガサはすぐれた推理小説はどんなものかについて意見を闘わせたことがあった。その際、姉から「書中の探偵と同じ手掛かりが読者に与えられていながら、読者に最後まで犯人が当てられない巧妙な筋立ての物語の創作は難しい、あなたに書けるはずがない」と言われたことに反発を覚えて、薬局での仕事の合間に『スタイルズ荘の怪事件』の筋を考え、ベルギーからの難民を目にすることが多くなっていたことから、エルキュール・ポアロの構想を得た。

 それまでに五つの出版社から突き返されていた『スタイルズ荘の怪事件』を出版しようとボドリー・ヘッド社からの申し出があったのは、1919年の末近くのことだった。

 初めての出版ということもあって迂闊だったアガサは、一方的に不利な契約書にサインしてしまう。

 アガサは名探偵エルキュール・ポアロの初登場とともにスタートを切り、処女作ながら売り上げも好調で二千部あまりが売れたが、雑誌連載料の半額に当たる二十五ポンドしか得られなかったうえに、あと四作の著書の出版をボドリー・ヘッド社と約束してしまっていた。

 次々に作品を送り出していったアガサは、ボドリー・ヘッド社が新たに提示してきた、前回よりも条件のいい契約を断り、他の出版社との契約で、作家としての活動を充実させていった。しかし、彼女が注目を集めるようになってくると、不本意な職場で働いていた夫のアーチーは妻の活躍をあまり快く思っていないふしが見え始めた。

 夫から冷たい言葉を受けることで傷付いたアガサは、一家の稼ぎ頭であることもあり家計に関して高飛車な態度をとるようになった。自分の働きで得た金は自分のものだということをアーチーに忘れさせなかった。

 その後アガサは原稿料で四人乗りモリス・カウリーを購入したが、その車を買ったのは自分だということも、夫に忘れさせなかった。

 アーチーは条件のいい転職を果たすと、ゴルフにはまるようになり、週末になるとゴルフに熱中した。

 売れっ子小説家でありながらアガサは作家活動で得た金を夫と分かち合おうとしなかったため、金の問題で絶えず口げんかをし、夫婦間の溝は深まっていった。

 アガサが『アクロイド殺し』の執筆に夢中になっていたころ、夫は別の女に夢中になっていた。

 アーチーはゴルフ場で知り合ったナンシー・ニールとの仲を深めていた。

 夫の情事にアガサはまるで気付かず執筆に集中し、義兄のジェームズ・ワッツと、アガサのファンのルイス・マウントバッテン卿の似たような提案を取り入れた『アクロイド殺し』を出版した。

 

 アガサ・クリスティーが失踪した年、1926年、彼女は一躍文壇の寵児となっていた。

 六作目となる小説『アクロイド殺し』を発表し初版の四千部をあっという間に売り尽くしていた。

 そしてその本で仕掛けたトリックについて、フェアかアンフェアか論争を巻き起こしていた。フェアにしろアンフェアにしろ、彼女が作家としての影響力を高めていたのは紛れもない事実だった。

 推理作家としての地位を確立していた彼女だったが、プライベートにおいては暗黒期だった。

 クリスティー夫妻の喧嘩の原因の一つは、アガサの肥満だった。

 彼女が娘のロザリンドを出産後に太り出したことがアーチーは気に食わず痩せるようにしつこく言っていたが、アガサにはそれができず、夫の残酷なからかいに耐えていた。

 金銭問題についての口論もいまだ繰り返されていた。

 クリスティー夫妻の友人たちがアーチーの浮気に気付いていても、アガサは夫の浮気に気付いていなかった。

 何も知らないアガサは浮気相手のナンシーを自宅に招きさえした。

 最愛の母クラリサ(通称クララ)を亡くし、ついに夫のアーチボルド・クリスティー大佐から、ナンシー・ニールという若い女性と愛し合っていると告白され、アガサ・クリスティーは激しいショックを受けた。

 アガサはアーチーから離婚を要求された。

 彼女はそれを受け入れられず、今さらながら自分が夫を必要としていることに気付いた。

 そして、もう少しお互い協力して夫婦として頑張っていこうとアーチーに提案した。

 娘のロザリンドのためにも、アガサはもう一年夫婦として力を合わせようと言ったが、アーチーはその期間を三か月にしようと言った。

 ロザリンドも両親の不和をよく知っていて、子ども特有の率直さで、「ダディーはあたしは好きなのよ。あたしとなら一緒にいたいと思ってるわ。でも母さんのことは好きじゃないみたい」と言った。

 自分には何の罪もなく思え今の事態に納得がいかず癇癪を起こしたアガサは、アーチーに向かってティーポットを投げつけた。

 そのヒステリックな振る舞いによって、かろうじてつながっていた夫婦をつなぐ糸は断ち切られた。

 アーチーは、「これ以上いっしょに暮らせない」「週末をナンシーと過ごすつもりだし、ちゃんと結婚するつもりでいる」と宣言してから仕事に行き、その後家に帰ってくることはなかった。

 そして、アガサ・クリスティーは姿を消した。

 

 彼女の愛車のモリス・カウリーが、サリー州ギルフォードの町から約五マイルの景勝の地、ニューランズ・コーナーの近くで乗り捨てられているのが発見されたことで、失踪事件は幕を開ける。

 警察、マスコミ、さらには民間人を巻き込んでの大捜索が行われるが、捜索範囲を拡大しても、川を浚っても、彼女の姿は見つからなかった。

 この失踪事件において、イギリスを代表する推理作家に名探偵としての役割を求める人も少なくなかった。

 ドロシー・L・セイヤーズは、《デイリー・ニューズ》の取材に対し、「この種の問題には記憶喪失、殺人、自殺、意図的な失踪と四つの答が可能です」と答えた。

 コナン・ドイルはこの記事http://kyo-novel.jugem.jp/?eid=41で書いたように心霊研究にのめり込んでいたので、アガサ失踪事件においても心霊術によって解決に導こうとした。

 アガサの手袋の片方を入手した彼は、霊媒のホラス・リーフにそれを示した。

 コナン・ドイルが言うには、ホラスになんら手掛かりを与えず、アガサ・クリスティーの失踪に関係があるなど一言も言ってないにもかかわらず、霊媒の彼は、「この手袋は厄介な事件に関係がありますね。持ち主は半ば呆然としていますが、その反面、目的意識も持っています。彼女は多くの人が考えているように死んではいません。次の水曜日には消息が知れるでしょう」と言ったという。

 やがてアガサ・クリスティーは、保養地のハロゲートで発見された。

 興味深いことに彼女は、ホテルの宿泊簿に、アーチーの愛人のナンシーと同じニール姓を記入していた。

 ハロゲートのホテルで対面したアガサはアーチーに、二人の結婚生活がどうしようもなく破綻していることを悟って、当てつけのために意図的に失踪したと、包み隠さずに語った(著者は、アガサの失踪の原因を、浮気した夫への当てつけとしているが、訳者はあとがきにおいて、夫の愛人の存在を世間に知らしめるためではないかと意見を述べている)。

 しかし彼女も、これほどまでに大事となるとは思ってもみなかった。

 警察が大捜索し、マスコミや世間が大騒ぎするなど、考えてもみなかったのだ。もっとすぐに見つかると思っていた。

 アガサの復讐は成功したと言える。なぜなら、失踪事件の一番の被害者は夫のアーチーだったから。

 彼は、妻を殺したという疑いをかけられて、警察からもマスコミからも付きまとわれる身となったため精神的に疲れ果てていたからだ。

 クリスティー夫妻は、アガサは記憶喪失症にかかっているということにしようと決めた。それが、事態を収束させるのに一番いいと考えたからだ。これ以上好奇の視線を浴びるのはまっぴらごめんだった。

 失踪事件は解決したが、大騒ぎはまだ続いていた。

 ハロゲートのホテルから自宅に帰るまでが一苦労だった。

 列車に乗るために駅へ向かえば、駅にはマスコミと野次馬が大挙し、アガサはなんとか汽車に乗り込んだが、その群衆の圧力にショックを受けて泣き出してしまうほどだった。

 記者やカメラマンはタクシーで、駅からアガサの姉マッジの婚家アブニー・ホールまでの道のり十マイルを、アガサたちの後を追った。アガサはアブニー・ホールに引きこもったが、メディアはなおも食い下がり、アガサに失踪事件の真相を聞こうとした。

 そして彼女はマスコミを強く嫌悪するようになった。

 アガサは、生涯において、1926年の11日間の失踪について沈黙を守った。

『アガサ・クリスティー自伝』が出版されたが、失踪事件についての記述はほとんどなかった。

 アガサはアーチーと離婚し、考古学者のマックス・マローワンと二度目の結婚をする。

 彼女は、一回目の結婚の失敗を踏まえ、マローワンからのプロポーズに対し、二つの条件を付けたうえで受け入れた。

 その二つとは、二人のあいだでは収入も所有物もことごとく折半するということと、ゴルフは絶対にしないでほしいというものだった。

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